文太郎「純米大吟醸 文太郎」30BY 兵庫県新温泉町

今年、2019年4月に立ち上げられた新しい酒蔵、文太郎さんの「純米大吟醸 文太郎」です。但馬杜氏の故郷、兵庫県美方郡新温泉町で昨年から設立準備が進められていた酒蔵、㈱文太郎が4月25日に初出荷となる8種のお酒を蔵出ししました。その中の一つになります。
純米大吟醸 文太郎 720ml 4,320円

[Buntaro Junmai-daiginjo] Brewery:Buntaro Brewery, Hyogo pref, Shinonsen city, Specific designations:Junmai-daiginjo-shu, Variety of raw rice:Gohyakumangoku ,Degree of rice polishing:50% , Pasteurize:pasteurized ,Yeast:undisclosed ,Yeast starter:Sokujo-moto method, Alc%:17%, Fragrance:pear, Taste:sour,rich

初蔵出 五百万石の純米大吟醸

原料米は豊岡市産の五百万石で、精米歩合は50%です。この原料でこの値段はそこそこ冒険です。酒母は速醸酛で酵母は不明ですが、おそらくスタンダードな協会系酵母だと思います。仕込水は軟水である岸田川水系の水道水。アルコール度は17度。酸度、アミノ酸度は発表されていません。ヤブタでの上槽、火入れはされています。地元の米を使うことを目指したものの、新温泉町の酒米生産はほぼ兵庫北錦に特化されていて、栽培地が確保できなかったため、地元の種籾を使って、お隣の豊岡市で生産した米になりました。

牛乳加工場であったプレハブ建屋を醸造蔵に改造

瑞々しい酸と甘味でグラマラスに

まずは香り。フレッシュで果実的な香りがクリアに立ち上ります。若い果実の瑞々しい香りです。口に含むとすぐに果実的な酸がしっかりと膨らみながら広がります。この爽やかな酸味を中心にしながら、穏やかな米の甘味が一体になってグラマラスな味わいに結びます。後半には柑橘的でほのかな渋味を伴いながらキレて、後味は短く綺麗な余韻を残します。兵庫県内では大吟醸はほぼ山田錦なので、軟質米の味わいに慣れてしまいますが、これは硬質米の五百万石らしい酸の立ち方をしています。一方で、繊細ながらボリュームのある甘味を実現しているのは杜氏さんの技量でしょうか。

但馬杜氏の故郷に酒蔵復活

かつては三大杜氏集団の一つにも数えられてた但馬杜氏の出身地である新温泉町では、1960年代半ばから酒蔵が途絶えていました。2000年代に京都の酒造会社が進出したものの、かねてより地元の酒蔵再建の期待されていたところ、前町長の岡本英樹さんが奔走。清酒酒造免許の新規取得は難しいため、休造していた京都府・京丹後市の永雄酒造を引き継いで社長に就任。昨年、2018年に設備も含めて新温泉町の現地に移転し、酒造の準備を進めていました。今年2月半ばに酒造免許の移転が許可されて醸造を本格化。二人のベテラン但馬杜氏を顧問に迎えて4月25日に初の蔵出しとなりました。これに先立って、4月1日には新社名を株式会社文太郎に改めています。文太郎とは新温泉町(合併前・浜坂町)出身の登山家、加藤文太郎からとったものです。

大吟醸「孤高」、古酒「単独行」などもラインナップ

二人の名杜氏 田村豊和氏 森口隆夫氏

顧問と言っても実際の酒造りはこのお二人が担われています。一人は田村豊和氏。「現代の名工」にも選ばれた名杜氏で御年は84歳とか。岡山県赤磐市の利守酒造で長く杜氏を務められていた方で、このたびの顧問就任を聞きつけて、丹後や但馬で活躍する若手杜氏が修行に訪れたとか。若手と言っても、全国新酒鑑評会において連続で金賞を受賞するなどの一流杜氏さんたちです。もう一人の森口隆夫氏は御年77歳。京都伏見の斎藤酒造(「英勲」)で長く杜氏として活躍され、全国新酒鑑評会で10年連続金賞受賞という、いずれも「超」のつく名杜氏のお二人です。
実は、4月25日発売のラインナップに「大吟醸 孤高 田村豊和」「大吟醸 孤高 森口隆夫」というお酒があります。「同じ山田錦、同じ精米歩合(40%)で酵母も同じ。上槽も2日違うだけ。ところが味が違う」(岡本社長)という、お二人が技を競い合った?もので、「比べて飲んでほしい」(同)と2本セットのみ10,800円で販売されています。

近隣の関宮町にある「但馬杜氏の郷」の石碑

加藤文太郎

会社名かつブランド名でもある「文太郎」は新温泉町(合併前・浜坂町)出身の登山家、加藤文太郎からとったもの。新田次郎の小説「孤高の人」のモデルとして知られる加藤文太郎は明治38年(1905年)生まれ。地元高等小学校卒後、神戸の三菱内燃機(現・三菱重工)に勤務。同時に兵庫県立工業学校夜間部に学ぶ。この時期に登山をはじめ、当時は貴族スポーツの領域であった「登山」で、単独で地下足袋をはいて猛烈なスピードで歩き抜くというスタイルで異色の存在となる。ソロクライマーとして数々の実績を残して、昭和11年(1936年)に厳冬の槍ヶ岳北鎌尾根で生涯を閉じる。著書「単独行」。1970年代でも高校・大学の山岳部では伝説の人物として信奉者で溢れていました。隣りの日高町出身の植村直己も影響を受けた一人です。厳冬の日本アルプスを単独で登る(ラッセルする)超人的体力とソロでロッククライミングする並みはずれた根気と精神力にはみんな憧れたものです。

すぐ後ろに山が迫る醸造蔵

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