今年4月に設立された酒蔵、文太郎さんのスタートラインナップのうち「特別純米酒 生酛 いで湯美人」です。兵庫県三方郡新温泉町には湯村温泉、七釜温泉、浜坂温泉の3つの温泉郷があります。2019年4月25日蔵出し。
特別純米酒 生酛 いで湯美人 720mℓ 3,240円
地元産兵庫北錦を生酛で
新規開業のスタートラインナップのうち「いで湯美人」ブランドのうちの一つです。「いで湯美人」のもう一つは「上撰」名義の普通酒になります。原料米は地元産の兵庫北錦。新温泉町産の酒米はほとんどが兵庫北錦であり、酒蔵立ち上げにあたって地元産米を使うことも目的にしていました。精米歩合は60%で酒母は生酛です。酵母は不明です。ヤブタで上槽し火入れを行っています。
はっきりした酸味の軽やかさ
香りはごく穏やかに飲み口を整えます。一口含むと、はっきりした酸味が口いっぱいに広がります。滑らかな甘味を伴って旨味を充分に楽しんだ後、フワリと消えて余韻だけを残します。果実感のある濃醇タイプのお酒ですが、固めの酸の効果によって軽やかな味わいとなっています。
特別純米酒なので燗を試してみました。張りと固さのあった酸味がうまく崩れて柔らかく流れ落ち、そこから端正な旨味が立ち昇ります。飲み継ぐほどに良くなるのはさすがと言うもの。なるほど「更尽一杯酒」です。温度は上燗までで、あまり熱くしない方がよさそうです。燗でも香りは変化せず、オフフレーバーは発生しません。
兵庫北錦
兵庫北錦は「なだひかり」と「五百万石」を交配したもので、県内の北部である但馬、丹波地域に適した酒造好適米として育成されたもの。大粒で心白の発生が良いという特徴をもち、併せて耐倒伏性が強いことも特徴です。5月上旬の田植えで9月上旬の収穫という早生で、栽培面積は78h(H30年)と酒米では山田錦(5,430h)、五百万石(186h)、兵庫夢錦(112h)に次ぐものとなっています。耐冷性が弱く、生産量としては減少傾向にあるようで、但馬杜氏さんの蔵ではよく見ますが、他流の蔵で見ることは少なくなっているようです。
ほとんどの設備を引き継いで
休造していた京丹後市の永雄酒造の経営を引き継ぎ、昨年から酒造免許や設備の移転を進め、2019年2月に醸造開始、4月25日に初蔵出しを迎えました。
これも、「但馬杜氏の故郷で酒蔵を復活したい」という前田社長が長年温めていた構想が実を結んだものです。ただし、十分な資金があったわけではなく、設備も大半は永雄酒造から運んだもの。時代の入ったヤブタや醪のタンクがそのことを物語っています。麹室は比較的新しそうに見えますが、「新規に購入したのはタンク1本だけ」ということで、他の蔵から譲られた機械もあり、初出荷までの苦労が偲ばれます。
岡本英樹社長は新温泉町長を2期務められました。「町長引退を期に夢の実現をということですか」と尋ねたところ、「いえ、落選したんです。通ると思ったんですけどね」というお話でした。海外への輸出が伸びているとは言え、国内販売量は減少し続けている日本酒業界への新規参入、しかも、最近の新規酒蔵は東京都区内や堺市内など大消費地のなかでフレッシュ・フルーティ・ジューシーな生酒を通年供給するという戦略が主流となっている中で、兵庫県内でもほぼ鳥取県みたいな地域で開業するとは、「選挙に出る人は腹の座り方が違うわ」と感心したしだいです。
「一つの酒蔵の設立」以上のものを
かつては近畿一円を中心に400人を超えていた但馬杜氏も、現在は30人を切るまでに減少しています。10年前のリストと比較してみると、主要には高齢化が原因ですが、但馬杜氏さんの引退後に社員杜氏に代わったり、杜氏制を廃止したところを多く見受けます。後継者の社員技術者が組合登録されている丹波杜氏組合では若手杜氏として顔が思い浮かぶ人が結構いますが、但馬杜氏の若手は1人か2人しか浮かびません。こうした現状を打開しようと、若手杜氏・蔵人養成の取り組みもはじまっているようですが、ここ文太郎の設立が名杜氏として名を馳せたベテラン杜氏と若手酒造家の交流とネットワークのハブになる芽となりつつあるようにも思えます。実際に現役の杜氏さんが研鑽のために来訪するようで、そういう意味でも「一つの酒蔵の誕生」以上のものを生み出す期待を抱きます。